2022.08.02

山根佐由里の現役時代を支えた、上原浩治の名言とは?勝利のためのルーティーン

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アスリートや指導者のルーティーンに迫る、本特集企画「準備が8割。勝利のためのルーティーン」。

第16回のゲストは、元ソフトボール日本代表の山根佐由里さんです。高校時代にピッチャーとしての頭角を現し、実業団1年目から新人賞を受賞。2010年にトヨタ自動車へ移籍し、引退するまで10年間活躍されました。

常に結果を求められるポジションで、どのようにプレッシャーと向き合ってこられたのでしょうか。競技経歴を振り返るとともに、山根さんを支えたルーティーンについて伺いました。

 

目標が明確になった高校時代。「ピッチャーの重要性を理解した」

ーまずは、山根さんがソフトボールを始めたきっかけを教えてください。

3つ上の姉の影響を受け、小学校4年生の時に父が監督を務める地域の少年団で始めました。ソフトボール一色の家庭だったんですよね。

地元の三重県度会町は、「スポーツが好きな女の子=ソフトボールをする」という風潮があるくらい、ソフトボールが盛んな地域でした。

ー小中学校時代を振り返ってみて、いかがでしょうか?

最初は、全然上手くできなかったです。中学入学時点で身長が142cmしかなく、運動神経も良くありませんでした。ボールをずっと怖がっていましたね。

中学2年生の時にピッチャーを始めたのも、「守備が苦手だから」という消極的な理由からでした。上手な子がピッチャーになるイメージが強いかもしれませんが、私はそうではなくて。チームが全国大会に出ても三塁コーチをしていて、中学3年生の時にようやく試合に出られるようになったんです。

ー選手として成長し始めたことで、進学にも影響があったのではないかと思います。どうして宇治山田商業高校を選んだのでしょうか?

ピッチングを指導していただける先生がいたので選びました。あえて、県でいちばん強い高校にはいかなかったです。

―高校での成績は?

初めての県総体では先発登板をしましたが、1回戦敗退。初球でホームランを打たれたことは、今も鮮明に覚えています。私の実力不足で先輩方の引退が決まってしまい、申し訳なさと悔しさでいっぱいでした。中学と高校のレベルの差、ピッチャーというポジションの重要性を改めて実感させられました。

敗退をきっかけに、ソフトボールへの向き合い方が変わりました。

ー具体的にどのように向き合い方が変わったのでしょうか?

中学生までは、目標がふわっとしていました。高校では「インターハイで優勝する」という明確な目標ができて、ピッチャーとしての自覚が強まったんです。自分がチームの中心となって投げなければいけない、と。どうすれば上手くなれるのか考えて練習するようになりました。

その後は県の新人戦で優勝し、東海選抜にも選ばれました。勝つ楽しさを知り、より競技にのめりこんでいった高校時代でした。

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前十字靭帯断裂で、世界大会が目の前から消えた

ー順調かと思われた高校時代でしたが、2年生で前十字靭帯を断裂。当時を振り返っていかがでしょうか?

長期離脱をしたことがなかったので、ショックが大きかったです。高校3年生への進級直前で、かつ世界ジュニアへの出場も決まっていたので、やるせない気持ちがありました。

当初はどれほどの大怪我なのかを理解しておらず、「痛みが引いたらすぐにプレーできるでしょ」くらいの感覚だったので、手術の必要性を聞いた時は驚きました。ラストイヤーを怪我で終わらせたくなかったので、手術を後回しにして、8月に引退するまでプレーを続けました。

ー練習へ参加できない期間はどのように過ごしていたのでしょうか?

陸上競技部で投擲(とうてき)をしている友だちに、ジムでできるトレーニングを教えてもらいました。投げることは共通していますし、これまできちんとトレーニングをしたことがなかったので、新鮮でした。
※投擲:砲丸投、円盤投、やり投、ハンマー投の総称

練習を休むことは嫌でしたが、くよくよしていても時間は過ぎていくだけ。「今できることは何だろう」と切り替えられたのはよかったです。怪我を経て、時間の使い方が上手くなったと思います。目標から逆算して、やるべきことを考えられるようになりました。

ー具体的に、どのようなことを意識するようになりましたか?

食事について考えるようになりました。動けないので体重が増えてしまい、授業の合間や練習後の補食は控えるようになりました。

親も食事に敏感だったので、無農薬で旬の食材が食卓に並ぶことが多かったです。栄養バランスのとれた和食を食べていました。

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睡眠は何よりも大切。今は「夜中に目覚めなくなった」

ー睡眠についてはいかがですか?

睡眠は、何よりも大切にしていました。次の日に疲労を溜めないためにも、「疲れたら寝る」ことです。夜中まで遊んだり、携帯を見たりは絶対にせず、必ず22時半までには寝るようにしていました。

ーライズTOKYOの高反発マットレスを使用してみて、いかがでしょうか?

最初は「意外とかためかな?」と感じましたが、身体の沈み具合が一定になるので、ストレスを感じなかったです。

翌朝はすっきり目覚められました。身体ががちがちに固まることなく、腰痛への負担もかなり軽減されたんです。元々夜中に何度も目覚めるタイプでしたが、ライズTOKYOさんのマットレスを使用させていただいてからは、驚くほど朝までぐっすり眠れています。

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ソフトボールは、仕事。フィールド内外でのプロ意識

ー高校卒業後は、実業団でプレーを続けられました。学生時代とは異なることも多くあったかと思います。

親元を離れて初めての一人暮らしで、環境は一変しました。寮生活だったので、洗濯や掃除など共同生活のルールを覚えるのが大変でした。

最大の変化は、「ソフトボールでお金をもらう」ことです。今まで以上に、結果を出す必要性と責任を感じました。学業第一だった学生時代とは違うなと。

また、チーム内で関わる方々の幅も広がりました。自分より10歳も上の先輩がいたり、オリンピック出場経験のある選手や海外の選手もいました。一緒にプレーする上で、よりコミュニケーションをとるべきだと感じました。

ーソフトボールが仕事になり、新たなステージに上がられたんですね。

フィールド外でも、先輩方のプロ意識を感じる場面が多かったです。例えば、ユニフォームにはシワがなく、スパイクに泥がまったくついていない。用具がどれもきれいでした。プロ意識を実感させられましたね。

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写真:本人提供

ルーティーンは安心材料。上原浩治さんの名言を待ち受けに

ー試合当日は緊張するタイプでしたか?

顔がひきつって、相手チームもわかるほど緊張していました(笑)。とくにアップと投球練習が終わってプレイボールまでは、吐きそうなほどでした。

ー試合前のルーティーンはありましたか?

緊張を少しでもなくすために、試合までの流れは細かく決めていました。服を左から着て、決まったプレイリスト通りに曲を聞いて、決まった本数をダッシュして……。とにかくいいイメージで試合に入れるようにしていました。

試合前最後に聴く曲は、必ずB’zさんの『イチブトゼンブ』でした。今でも流れると、「お!」と身体が反応してしまいます(笑)。

ダッシュは長めを10本、短めを5・7本走っていました。奇数を意識していたんです。当日の調子によって、走る本数を調節していました。

ルーティーンではありませんが、学生時代から尊敬していた上原浩治さんの印象に残ったフレーズをメモして、携帯の待ち受けに設定していました。2013年に米メジャーリーグ ワールドシリーズ胴上げ投手となった際の著書『不変』が大好きで、同じ投手として共感する部分が多く、勇気づけられることが多かったです。

特に好きな名言は、「悔いの残らないように、打者を全力で抑えにいくこと」。2013年は、怪我明けかつ代表選考落ちした翌年のシーズンだったので、これまでの自分を変えなければいけないと必死でした。上原投手の言葉を受け、「このまま自分なりに、全力で進んでいけばいいんだ!」と自信を持つことができました。

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画像:本人提供

ールーティーンによって、試合への気持ちは変わりましたか?

変わります。「いつも通り(ルーティーンを)やっているから大丈夫」と、安心材料になるんですよね。

ピッチャーは、「自分が投げるボールで勝敗が決まる」と、常にプレッシャーと戦っています。日本代表としてプレーするために、まずは自チームで結果を残さなければいけません。結果が全ての世界で、ルーティーンは大切なものでしたね。

 

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